「力に頼る指導をするのは、指導力のない教師だ」
とよく言われます。
「力に頼る指導」がだんだんと拡大解釈をされ、大きな声で注意するとか、
感情的に注意するとかということまでが含まれるようになってきました。
ちなみに「感情的に叱る」ことと「感情のままに叱る」ことは全く別物です。
(
拙著『できる教師の叱り方・ほめ方の極意』をご覧ください)
その結果どうなったでしょうか。
私はこのようになってしまったと思っています。
┌──────────────────────────────
│指導力のない教師に加えて、指導しない教師までも増えてしまった
└──────────────────────────────
淡々と伝える、やさしく諭す、静かに考えさせる、こういうことを通して子
供を指導できるのは、感化する力をもった優れた教師と、感化される力をも
ったすばらしい子供がいて初めて成立するものです。
そういう力のない教師が、外面だけを真似ても、そこに「指導」は成立しま
せん。そういう力のない子供に、表面だけの指導をしても同様です。
しかし、力に頼らない指導をし、それで子供が変わらなければ仕方のないこ
とだ、というような、指導しない教師になっていないでしょうか。
時には、「声を大にして」「教師の熱い思いを声に乗せて」子供の心に迫る
ことが大切なのではないかと私は思います。
つまり「気魄」です。
気魄のこもらない指導はいつか子供に見透かされ、子供に軽んじられるもの
です。子供が高学年になればなるほどそうなってきます。
指導の3段階の「レベル1」(真剣にやろうとする気構え、心構えがあるレ
ベル)にも達していない子供をレベル1まで引き上げるには、教師の気魄が
必要です。
教師の気魄を呼び起こすものは、子供への愛情です。
この子たちによりよい活動をさせたい、よりよい経験をさせたい。
この子たちのよりよい活動によって、他の子にもよりよい経験をさせたい。
そういう愛情が元になって教師の気魄が生まれるのだと思います。
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