ヨーロッパではユダヤ人迫害が始まり、杉原千畝の命のビザを
もったユダヤ人たちがシベリヤ鉄道を使ってウラジオストックから
敦賀を目指していました。
当時、ウラジオストックから敦賀を目指すルート以外はほとんど
遮断されていたそうです。また、ユダヤ人達が便宜上もっていた
渡航先のキュラソーに行くには、日本を経由するのが当時の最短
ルートでもあったそうです。
今回は、杉原の命のビザを繋いだもう一人の男を紹介します。
ウラジオストックに着いたユダヤ人達は、実はここでも外務省の
訓令によって足止めをされます。ドイツと同盟を結んでいることや
一挙に大量の難民が日本に上陸することへの危惧があったのでしょう。

船に乗れなければ、せっかく杉原にビザを発行してもらったユダヤ人
たちも元の国へもどらなければなりません。もどれば命を奪われる
ほどの迫害が待っています。
この窮地を救ったのが、この人、
根井三郎(ねい さぶろう)でした。

根井はその時のウラジオストックの領事でした。
何と杉原千畝とはハルピン学院の同窓生(確か2年後輩)で、
お互いによく知る中でした。
根井は外務省からの訓令に対して
「帝國在外公館査証ノ威信ヨリ見ルモ面白カラス」
(いやしくも大日本帝国の在外公館が発行した正式なビザがあるのに
渡航を禁止するということは、日本の威信に関わることで、
そんな措置はまったくもって面白くない)
と、独断でユダヤ人たちを乗船させます。
もっとも外務省の訓令も、杉原ビザの紛失者に再発行したり、
条件不備(発行要件を満たさない)のユダヤ難民への渡日乗船のための
検印押捺を禁止するというもので、それほど無茶苦茶な訓令ではありません。
しかし、仮にもいったん発行してしまったビザをここで改めて
無効にすることに対して、根井は反対したのです。
しかもこの時に、紛失者に再発行もしています。
(中にはもともと持っていなかったと思われる人もいたようです)
結局、根井はウラジオストックに到着したすべてのユダヤ人に乗船許可を
与えました。その数は15000人とも言われています。
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