ホームで電車を待っていました。
地方の駅ですので、待ち人のための枠線はホームにありません。
それでも、電車のドアが停止するあたりに、勤め人らしい人々が4~5人、
一列に並んでいました。
私はその最後尾に並びました。
ほどなく電車がホームに入り、ドアが列の前で停止しました。
列の先頭の人がドアの左端になる位置に見事に止まりました。
その時、背中に場違いなほど大きなリュック?を背負った若者が、ベンチの
方から歩いてきてドアの右端に立ちました。
──│ドア│──
○ ○若者
○
○
○
○
という構図です。
降りる方が済むと、列の先頭の人とほぼ同時に若者は乗り込んで行きました。
私は若者の後から電車に乗り込みましたが、何か釈然としないものを感じて
いました。
座席はとうにふさがっていました。しかし車内は比較的すいていました。で
すから実質的な不利益は何もありません。しかし、何か晴れ晴れとしないの
です。この若者は自分の行為のおろかさになぜ気付かないのか、そのことが
気になるのです。
全ての行為の適否を教えることは不可能ですので、多くの場合は自分で判断
することになります。その判断の基準は何なのだろうかと思ったわけです。
それで思い出したのが、「主徳」「元徳」という言葉です。多くの道徳的価
値のその元、その中心となるものということです。そういうものがマナーや
礼儀作法にもあるのではないでしょうか。
その根本を深く意識していれば、的の中心を射貫くことはできなくても、的
そのものをはずすことはないというもの、そういうものをきっちりと教えて
いくことも大切だと思います。
では、それはいったい何なのか。
軽々に結論は出ませんが、今後は意識して考えてみたいと思います。
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